資料1
ビッグ・ハグ
「ちから(力)強く人のためにな(也)れるように」という願いが込められ力也君という名前がつけられました。力也君はお母さんの浅井三和子さんにとって初めての子どもでした。お母さんは、力也君がおなかの中にいるときから「力也、力也」とよびかけて誕生の瞬間を今か今かと待ち望んでいました。
1984年12月15日、ついにその日がやってきました。お母さんが病院にきてから三日目、陣痛が激しくなり、いよいよ出産をむかえました。赤ちゃんの頭が少しずつ外に出はじめました。ふつうならば、頭がでた後はするりとでてくるはずなのですが、力也君はなかなかでてきません。お医者さんや看護婦さんたちが、おなかを一生懸命おしつづけ、ようやく力也君はこの世に誕生しました。しかし、生まれてくるときに、しばらく息ができない状態が続いていたのです。力也君はその後、特別治療室で手当を受け、なんとか一命をとりとめました。
力也君の無事を知りほっとしたお母さんは、一日も早く力也君が退院できるのを待ち続けました。四十四日間という入院生活のすえ、ようやく力也君が退院する日が来ました。この日を心待ちにして、急いで病院に駆けつけたお母さんにお医者さんが次のようなことを言いました。
「残念ながら力也君は脳に障害がありますので、ふつうのお子さんのように成長するとは 考えないでください。一般の学校に通うことや、人並みの生活をすることはまず無理で しょう。まだ小さいので、あまりはっきりとはでていませんが、成長がおくれてしまっ たりして、脳に障害があるためにいろいろな問題がでてきます。たとえば手足の動きが 不自由だとか、ふつうのお子さんのように長く生きることが難しいかもしれません。」
お医者さんの言葉が、お母さんの頭の中でなりひびきました。まさかそのような話を聞くとは思ってもいませんでした。お母さんはお医者さんにたずねました。
「脳に障害があるとおっしゃいましたが、どういうことですか。」
お医者さんはきっぱりと言いました。
「脳の一部が死んでしまっているのです。」
お母さんはそれでも納得できませんでした。そして次のように言いました。
「でも、先生。脳だけでもたくさんの神経細胞があるわけでしょ。だから、少しぐらいだ めな部分があっても、それを助けてくれる働きがあるのではないですか。」
それから力也君とお母さんの必死の生活が始まりました。お医者さんが言ったように、力也君は話すことも歩くこともできません。大きな病気をして高熱が続き、生死をさまよったことが何度もあります。それでもお母さんは力也君の可能性を信じ、一生懸命に育てました。
「私にはめそめそ泣いている暇なんてない。力也が失った言葉のかわりは母親である私が すればいい。不自由な力也の手となり足となり口となればいい。それに力也がたとえ話 せなくても歩けなくても、それは彼の個性であって、彼に与えられたすばらしい部分が 生かされて、彼にしかできないことがあると信じている。」
お母さんはそう考えていました。
お母さんは力也君のためになることであれば、何でもすぐに実行しました。
体温調節がうまくできない力也君は冬になるとすぐにかぜをひいてしまい、高熱にうなされました。そこでお母さんは一家でハワイに移り住むことにしました。たとえまわりから何を言われようとも、お母さんは力也君のことを第一に考え、力也君の体の働きがよくなる可能性が少しでもあれば、何でもやったのです。
また力也君はじゅうぶんに食べ物をかめません。そこでお母さんは、自分の口で食べ物をかみくだいて食べさせていました。こうすると消化がよくなり便秘になることも少なくなるわけです。しかし人の口の中にはばい菌がたくさんいます。いくらていねいに歯を磨いても完全にきれいにすることはできません。そこでお母さんは歯を抜いて総入れ歯にしようと考えたのです。まわりからは反対されましたが、お母さんは決心しました。ふつうは一本とか二本抜いて、一週間ほどしてはれがひいてから次の歯を抜きます。しかし、お母さんは一度に全部の歯を抜きました。のんびりぬいている間に力也君に何かがあったらたいへんだと考えたからです。抜いた時はものすごい痛みで、出血もひどく貧血状態になりました。ふらふらして家に帰ると顔がふうせんのようにはれてふくらんでいました。一晩たって枕カバーをみると血がべっとりついていました。はれがひくのに数週間もかかりました。入れ歯にするとおいしいものが味わえないとか、大きな口を開けて笑えないなどの不便さはありましたが、お母さんは後悔はしませんでした。力也君のために少しでも役に立つこと、母親としてできることはどんなことでもチャレンジしようと心に決めていたからです。