大森塾2002 授業道場
                                   主語と述語
                                                                  TOSS SANJO 田代勝巳
 
 2002年8月3日、大森塾での授業道場で「主語と述語の授業」をしました。その時の授業です。
 
   花が咲く。 
発問1 この文の主語は何ですか。 
   花が
発問2 では、次の文の主語は何ですか。 
鳥は飛ぶ。 先生も走る。 太郎君まで笑った。 
発問3 主語かどうかは、どうやって確かめればいいですか。 
 「〜が」になおしてみる。
説明1 文の中で「〜が」にあたるものを主語といいました。そのほか、「〜は」「〜も」「〜まで」も主語になることがあります。どの言葉も「〜が」をいれても意味が通じます。 
発問4 では、次の文のー線は主語ですか。 
本はよく読む。明日も出かける。東京まで行く。 
発問5 どうして主語ではないのですか。 
説明2 「〜が」をいれてみます。「本がよく読む。」「明日が出かける。」「東京が行く。」では意味が通じません。ー線の部分は主語ではありません。 
 
発問6 次の文章は教科書のものです。全員で読んでみましょう。最初の文の述語は何ですか。 
宇宙は、約百五十億年前に起こった、ビッグ・バンという大爆発から誕生した。そして、今でも広がり続けているといわれている。 
 誕生した。
発問7 主語は何ですか。 
 宇宙は、
説明3 「宇宙は」を「宇宙が」にかえて、述語とつなげると「宇宙が誕生した。」となり意味が通じます。長い文で主語をみつけるには、述語を最初に見つけるとわかりやすいのです。 
発問8 二番目の文の述語は何ですか。 
 いわれている。
発問9 主語は何ですか。 
  ない。(または「宇宙は」)
説明4 このように、日本語の主語は書いていない場合もあります。また述語も書いていないときもあります。 
発問10 1年生の子が先生に向かってこう言いました。 「先生、おしっこ。」この文の主語は何ですか。 
指示1 では主語と述語をきちんと書いて意味の通じる文にしなさい。 
  先生、ぼく(私)はトイレに行きたいです。
発問11 1年生の子が具合が悪くなってこう言いました。「先生、気持ち悪い」この主語は何ですか。 
 ぼく
 私
 ぼくのおなか
指示2 主語を補って文にしなさい。 
 先生、ぼく(私)は、(おなかが)気持ち悪いです。
 
発問12 このように日本語は、主語や述語を省略すると、意味が通じなくなることがあります。では、次の文はどうでしょう。この文は、二通りの意味にとれます。どうちがうのですか。 
ねずみが嫌いな猫。 
 
指示3 では、それぞれどう書けば意味がはっきりとしますか。主語と述語をはっきりとさせた文に書き直しなさい。 
 ねずみが猫を嫌い
 猫はねずみが嫌い
説明5 意味がきちんと伝わる文にするには、主語と述語が大切です。 
発問13 しかし、主語や述語が省略されていても意味がちゃんと通じる言葉もあります。例えば、この言葉です。主語と述語をつけるとどういう文になりますか。 
おはよう
  あなたは、おはやく起きていますね。
こんにちは 
 今日はあなたのご機嫌はいかがですか。
 今日はいい天気ですね。
 今日は雨ですね。
説明6 「こんにちは」は「今日は〜」が省略されたものです。だから「こんにちわ」と書くのは誤りなのです。 
発問14 次はお母さんと子どもの会話です。意味はちゃんと通じています。これを主語と述語を補った文になおしなさい。 
「ただいま。」
「おかえり。」
「のど、かわいた。」
「麦茶でいい。」
「いいよ。」 
 ぼくは、ただいま帰りました。
 あなたが、お帰りなさいました。
 ぼくは、のどがかわいたよ。
 あなたの飲みたいのものは麦茶でいいですか。
 ぼくのみたいのものは麦茶でいいよ
 
説明7 このように全ての言葉を主語と述語を補っていると、かえってややこしくなるときがあります。主語と述語を省略しても、相手にちゃんと意味が通じる時もあるのです。日本には、この省略を発展させ、世界一短い詩として表現したものがあります。 
夏草や兵どもが夢のあと
説明8 それが俳句です。わずか17文字の中に、凝縮された美しさ感動がこめられています。これを、英語であらわすと、次のようになります。これを訳したブリトン氏は17文字に込められた深さに驚いたそうです。 

A mound of summer grass: / Are warriors' heroic deeds / Only dreams that pass?
 
 
ブリトン氏はこの訳書の "Introduction" の冒頭に 次のような自作の詩を掲げて、俳句のみごとな形式を賞賛しています。
 
A seashell
Is a Japanese poem
Of seventeen syllables--
Small and formal in shape
But containing an ocean
Of thoughts. 
 
17音の
日本の俳句は
貝のよう
端正な小さい殻の中に
大海原ほどの
思いを秘める

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1 辞典における「主語」の意味
(1)文の成分の一。文の中で「何がどうする」「何がどんなだ」「何が何だ」における「何が」を示す文節をいう。「犬が走る」「空が青い」「花散る」における「犬が」「空が」「花」の類。(『大辞林』・三省堂)
 
(2)文の成分の一。述語に対して主格となる語。「花咲く」「成績がよい」の「花」「成績が」などで、主に体言からなる。国語では明示されないことが多く、述語の修飾語とする考えもある。(『広辞苑』・岩波書店)
 
(3)英subjectの訳。文の成分の一つ。述語の示す動作・作用の主体。性質・状態をもつ本体をあらわす。日本語では、主語は常に述語に先行し、また、主語が明示されていなくても文が成り立つ。連用修飾語の一区分と見る考えも有力である。主語は現代語では助詞「が」が伴うことが説によっては、「が」を伴った「桜が」の形を主語と呼び、あるいは「桜が」の「桜」だけを主語という。
〔補注〕「話が好きだ」「水が飲みたい」などの「話」「水」を対象語と呼ぶ学説。また、「彼は医者だ」「地球は動く」「酒は飲まない」など「は」を伴ったものを「が」の主語と区別して題目語、提示語、提題語などと呼ぶ学説がある。(『日本国語大辞典』・小学館)
 
(4)文の成分の一つ。文の中で、それがかかっていく述語によって述べられる事柄の、主体となる部分。述語に対して主格の関係に立つ文の成分。「何が何だ」「何がどうする」「何がどんなだ」の「何が」にあたる部分。「が」を含めた文節や連文節についていうが、「が」は上の語が主語であることを示す語で、主語は「が」の上にある体言や準体言だけをも主語という。形態的には文中で体言に助詞「が」が下接した形で現れるのが最も普通であるが、古語の「花咲く」「雨降る」の「花」「雨」のように助詞を伴わないものた、「花はまだ咲かない」「雨さえ降ってきた」の「花は」「雨さえ」のように「が」ではなくて「は」「さえ」のような係助詞や副助詞を伴うこともある。つまり、「が」の上の語が主語であることを示すが、主語は常に「が」で示されて文に現れるということではない。英文法では、文は主語と含む主部と述語を含む述部とで成り立つ、つまり主語と述語とは対応するとし、事実、動詞の語形は主語の人称と呼応するが、日本語の主語は述語と対立するものでなく、客語や補語などと同様に、述語から分出したものと説かれる。「投手が捕手にボールを投げる」で、「投げる」という述語は、それ自体「誰かが何(誰)かに何かを投げる」という意味を内包しており、その「誰か」「何か」が言語面に現れたのが「投手」「捕手」「ボール」であり、これらは「が」「に」「を」を伴って、「投げる」にかかっていく、つまり「投げる」の意味を完成させていく。「投手が」は「投げる」から分出して、「投げる」という動作の主体を表しながら、同じく「投げる」から分出した「捕手に」「ボールを」に吸収されていく。そこで主語は用言にかかるという意味で客語や補語とともに連用修飾語の一種ともされる。しかし、同じく連用修飾語とされる「ボールをゆるく投げる」の「ゆるく」が、完成された「投げる」の意味・ありようを更に詳しく述べるのとは異なるという点をはっきりとさせておく必要がある。
 「が」は上接語が主語であることを示すが、「が」で示されるものに主語以外の場合がある。「お金がほしい」「水が飲みたい」「犯人がにくい」などの「が」は、上接する「お金」「水」「犯人」が下の用言で表される感情の主体ではなく対象であることを示す。時枝誠記は対象となる語を対象語と名づけて主語と区別した。また、「雨は降っている」の「雨」は「が」でなく「は」で示されているが、「降っている」という状態にある主体であるから、「降っている」という述語の主語であるということができそうである。しかし、「雨が降る」の「雨が」は、降るのは雪でも霰でもなくて雨であるという形で「降る」の意味の完成に資しているのに対して、「雨は降っている」の「雨は」は雨はどうなっているかというとやんでいるのでも過ぎてしまったのでもなくて降っているのだということを言うのであって、「降る」から分出し、「降る」の意味完成に資する雨ではない。従って、「雨は降っている」の「雨は」は厳密な意味での主語とは言いにくいところがある。
 また、「象は鼻が長い」という文で、「鼻が」が「長い」の主語、「象は」は「鼻が長い」の主語であるとすると、一つの文に主語が二つあるので「鼻が」を主語、その「鼻が」を含んだ述部の主語になる「象は」を主語と区別して総主語ということがある。(『日本語文法大辞典』・明治書院)
 
2 「主語」に関する諸説
(1)「主語」のはじまり
 「文ニハ、必ズ主語ト説明語トアルヲ要ス」(『広日本文典』大槻文彦,1897)
 
(2)「水が飲みたい」の「水が」は主語か 
 @普通「が」は主語を示すが、その中にはここに挙げたような動作の対象となる用法が  あり・・・・主語とは異なるが、文法の考えとしては主語である。(橋本進吉)
 A他動詞に希望の助詞「たい」、受け身・可能・自発の「れる」「られる」のついた言 い方では動詞の表す動作の対象を「が」で示す。しかし、この場合の「が」も主語を示 す「が」である。(岩崎悦太郎)
 B述語の概念に対しては、その対象になる事柄の表現であるというところから、これを 対象語と名づけることとしたのである。(時枝誠記)
                  『日本語を考える』(山口明穂・東京大学出版会)
 
(3)「が」
 「『何が』は、その受けたる事に物実をあらせて、それがと指す言葉なり」(『あゆひ抄』  富士谷成章)
 以上のことから「が」の機能は「主格」ではなく、それを受ける語の表す内容を生みだ すもとになったものを指し示すと考えたい。
                  『日本語を考える』(山口明穂・東京大学出版会)
 
(4)英語のSに相当する内容が、日本語では区別されている「主語(動詞述語の動作主 体や形容詞述語の形容の対象に相当するもの」と「主題=題目(「何か」について「何 事か」をのべる場合の「何か」に相当するもの」の区別のないまま、いわば文構造上の 形態として文の先頭に置かれていることを指摘しなければならない。(『日本語の文法 を考える』重見一行・和泉書院)
 
(5)「主語無用論」(三上章)
 
(6)日本語に主語は無用であり、その基本文は述語のみの一本立てであること。一方、英仏語など西洋語では主述の二本立てである。(『日本語に主語はいらない』金谷武洋・講談社)
 
(7)「総主論争」 「象は鼻が長い」
 
(8)ウナギ文 「ぼくはウナギだ。」
 
(9)こんにゃく文 「こんにゃくは太らない。」
  
3 本授業で提案
 主語・述語という概念は、もともと日本語にはなかったものである。したがって、「象は鼻が長い」、「ぼくは英語がわかる」などの文を主語・述語を用いて分類していくことには、無理が生じる。
 しかし、指導要領には小学校の1,2年生で、

(ア)文の中における主語と述語の関係に注意すること。
 
とある。さらに、これを受け指導要領解説では、次のように述べている。

(ア)の事項は、文の構成についての最も基礎となるものであり、ここでいう「主語と述語の関係」とは、主語と述語がきちんと照応するということである。上の学年になり、児童が複雑な構成の文を書くようになると、主述のねじれや脱落も多くなってくる。文としての意味が通じるためには、主語と述語がきちんと照応することが大切であるということについて、第1学年および第2学年のうちに十分に指導しておくことが必要である。
 まず、第1学年においては、「話すこと」、「書くこと」の指導の中で、主述の整った文型や文末をはっきりとできることに重点をい置いて指導するようにする。指導に当たっては、主述の関係がねじれたり、主述のはっきりしなかったりする文を取り上げ、それらが聞き手や読み手に意味が通じないことに気づくようにしていく。
 その上で、次第に、主語が省かれている文や、やや複雑な文型についての主述の関係へといくようにする。
 
このことから、なぜ小学校低学年から主語・述語の指導をするのかがわかる。すなわち、主語・述語の指導においては、次のことをねらいとしている。

達意の文を書けるようにする
 
 達意の文とは、意味がわかる文のことである。では、逆に達意ではない文とは何か。主語と述語に関していえば、それは次のような文である。
(1)主述がねじれている文
「ぼくの夢は新聞記者になって、いろいろなニュースをたくさん書きます。」
「ぼくは、明日の列車で、京都着は6時になります。」(『スナイパー』No.246)
「わたしたちは、昨日の午後、学級会が開かれました。」(『スナイパー』No.248)
(2)主語・述語が省略され、意味の通じない文
「先生、トイレ。」「先生、気持ち悪い。」
「太郎は部屋にはいると、すぐに電気をつけた。」と「太郎が部屋にはいると、すぐに電気をつけた。」(『新しい日本語学入門』)
(3)主語と述語の間に、長い内容がある文
「私は洗濯物を干しながら歌を歌っている姉に話しかけて、昨日のことを考えてみた ら、私が悪かったのであやまろうと思ったけど、姉がその時、せんたくものを干し 終わって、向こうに行ってしまって残念だった。」(『スナイパー』No.248)
「東ドイツの党青年向け機関誌「ユンゲ・ウエルト」は十七日、さる五日にドレスデ ン駅でプラハにある西ドイツ大使館にいた出国希望者を輸送する列車に乗ろうとし て、運行を妨害した青年三人がドレスデン地裁で、三年六月から四年六月の懲役と 千東ドイツ・マルクの罰金の実刑判決を受けたと報じた。」(『日本語練習帳』)
 
 日本語は主語がなくとも、意味の通じる言語である。しかし、子どもに指導するときには、主語と述語をきちんと指導し、達意の文が書けるにはどうすればいいのか理解させなければならない。
 その際に、落としてはならないのは、日本語のもつすばらしい側面である。主語がないからといって、曖昧な言語だと批判するのは誤りである。加賀野井秀一氏は次のように述べている。

日本語はもともと、欧米語のような意味での主語が表現されたり、それを固定されたりすることの方がまれなのだと考えるべきであろう。・・・・つまり日本語は、すでにかなりの相互了解を前提とする特定の場において、既知のことを省略するどころか、まるで逆に、必要なことだけを口にすればいいという類の言語なのである。・・・こうした言語において「主語が表現されていないからあいまいだ」などと論じるのは、決定的なあやまりであるにちがいない。(『日本語の復権』講談社現代新書)
 
 また、金田一京助氏は、次のように述べる。

日本語は・・・・最も分析的な言語であると言える。なぜなら、各々の動詞は、人称にも、時にも、数にも、法にも超越した全く共通な一つの形で役立ち、人称や数等は、それぞれ、その時の主語で示されるだけであり、過去や未来をば、ただ助動詞をそれを専門に表して後へ添えられる。法も、同様である。例えば、動詞「書く」は、人称にも数にもかかわりなく常に「書く」で、それが「我書く」「汝書く」「彼書く」「我々が書く」「汝等が書く」「彼等が書く」となる。
 過去にしようとすれば、それぞれの下へ一様に「た」をつけ、未来にしようと思えば一様に「う(よう)」をつける。
又、格を表すのにも、名詞・代名詞は、何格でもそのままで、関係を表し分けるには、関係表示専門の「が」「の」「に」「を」「より」「から」「まで」「さえ」「と」「も」「へ」の類が一様に、どんな名詞・代名詞へも結びつくのである。全く分析的な語法である。」(『日本語の特質』)
 
 私たち日本教師が正しい日本語を理解し、日本語を誇りに思えるような指導をすることも大切なことである。
 
【参考文献】
『日本語の文法を考える』(重見一行・和泉書院)
『日本語はどんな言葉か』(小池清治・ちくま新書)
『日本語練習帳』(大野晋・岩波新書)
『日本語に主語はいらない』(金谷武洋・講談社)
『日本語表現の教育』(今石元久・図書刊行会)
『日本語の文法を考える』(大野晋・岩波新書)
『日本語の構造 英語との対比』(中島文雄・岩波新書)
『新訂 近代文法図説』(徳田政信・明治書院)
『日本語を考える』(山口明穂・東京大学出版会)
『日本語の大疑問』(池上 彰・講談社)
『新しい日本語学入門』(庵功雄・スリーエーネットワーク)
『みんなの日本語教室』(加藤重広・三笠書房)
『「は」と「が」』(野田尚史・くろしお出版)
『理科系の作文技術』(木下是雄・中公新書)
『日本語の作文技術』(本多勝一・朝日文庫)
『ヨーロッパの言語』(中島文雄・岩波新書)
『言語学入門』(小泉 保・大修館書店)
『概説 日本語学』(鈴木一彦、林 巨樹・明治書院)
『日本語』(金田一京助・岩波新書)
『日本語の復権』(加賀野井秀一・講談社)