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新潟県下田村の生んだ「大漢和辞典」の著者・諸橋轍次。その生涯を追うことにより、大きな事業を成し遂げる際に必要なものは何なのかを考える。
1 漢字辞典の必要性・意義
発問 漢字。一番画数の多いと思う漢字をノートに書きなさい。
板書させる。
説明 小学校で習う漢字一番画数が多いのは、議、競、護で20画。日常使う漢字としてまとめられた常用漢字の中では「鑑」で23画。しかし世の中にはもっと画数の多い漢字があります。鸛で29画。しかしもっとあります。「テツ」「セイ」という字で64画もあります。
説明 漢字は今から3000年以上前、中国でつくられました。漢字という文字のおかげで、人類は大きな進歩を遂げていきます。口から口にしか伝えられなかったことが、漢字のおかげで多くの人に時代を超えて伝えることが可能となったのです。中国では進んだ文化が誕生しました。日本も中国から大きな影響を受け、すぐれた文化をとりいれることによって発展していきました。漢字という文字によって学ぶことができたのです。
発問 ところで漢字は全部で何文字あると思いますか。小学校で習う漢字は1000文字です。
常用漢字で2000。予想させる。
説明 5万以上と言われています。小学校6年間で1000字の漢字を習っています。このペースで5万の漢字を習うとしたら300年もかかるほどです。熟語になると、100万を越えると言われます。
発問 日本人は昔から漢字によっていろいろなことを学ぼうとしました。しかし困ったことがありました。日本人にとって困ったこととは何だと思いますか。
辞典がなかったこと。
説明 漢字の辞典がなかったのです。中国には、漢字だけを集めた辞典や熟語だけを集めた辞典はありましたが、漢字も熟語も両方集めた辞典はありませんでした。もちろん日本語で書かれた漢字辞典など1冊もなかったのです。
2 諸橋轍次の紹介
発問 そこで日本初、世界初の漢字も熟語も集めた漢字辞典をつくろうとした人がいます。誰ですか。
諸橋轍次
発問 どこで生まれた人ですか。
説明 そうこの下田村で明治16年、今から120年前に生まれました。
これが諸橋轍次の生まれた家です。
これが辞書をつくるときに使用した家です。現在は漢学の里諸橋轍次記念館の近くにあります。
3 辞典編纂の苦労
発問 ところで辞典をつくるには、どんな作業が必要ですか。予想してノートに箇条書きにしなさい。
発表させる
説明 想像しただけでいくつもの作業が必要ですね。諸橋轍次はまず漢字を集めました。いったいいくの漢字を集めたのか。その数6万。そしてその漢字ごとに熟語も集めました。中国の古い書物を一冊一冊ずつ調べていきました。集めた熟語の数は120万を越えました。次に漢字と熟語をカードにして整理しました。カードの数40万枚。縦に積み上げれば40mになります。諸橋轍次は大くの仲間や学生たちとともにこの作業をつづけます。
説明 さらにそこから1ページずつ原稿を書いていきます。できあがった原稿は、会社に運ばれ整理されます。そして印刷工場に運ばれます。この当時、活字をつくるには一文字ずつ鉛のはんこのようなものをつくっていました。ところが大きな印刷工場でも活字は8千種類しかありません。新しい漢字辞典には5万種類の文字がでてきます。4万もの新しい活字をつくらなければなりません。しかも大きさのちがうものを6種類は必要です。つまり約30万種類の鉛の活字を新しくつくったのです。
説明 さらに作業は続きます。活字ができたら原稿通りに活字を組み合わせます。そしてためしに印刷します。その印刷したものを諸橋轍次博士達が見直しをします。間違いが有れば赤で修正します。それをまた工場に運びます。また活字をくみなおし、ためし刷り、そして点検、この作業は何度も繰り返します。
説明 この気の遠くなるような作業の結果、13年の月日をかけてようやく1万5000ページ分の版ができあがり、ためし刷りが終了しました。そして昭和18年。ついに大漢和辞典の記念すべき第1巻が完成しました。
しかりあまりにも無理をしたため諸橋博士はこのとき右目は失明同然でした。
4 戦争の惨禍
発問 さらに、この時代。不幸な出来事が起きます。昭和18年。日本は何をしていましたか。
説明 戦争です。戦争のため物資が不足し、印刷はストップしてしまいました。さらに昭和20年。東京大空襲。東京は爆撃され、焼け野原になってしまいます。その時に、大漢和辞典の鉛の版がすべてやけてしまいます量にして100t。10トントラックで10台分です。また幌橋博士とともに作業をした多くの仲間が亡くなってしまいました。また戦争に負けたため、漢字などいらないのではという風潮もありました。出版しようとした大修館書店も経営を考えて悩みます。このような事態にあい、諸橋轍次も一度は大漢和辞典の発行をあきらめます
説明 しかし、大修館書店の社長鈴木一平は大漢和辞典をつくる夢をあきらめませんでした。大漢和辞典の版はすべてやけてしまいましたが、別の辞典の版が幸いにも残っていました。また、試し刷りをした大漢和辞典尾の原稿も残っていました。そして、戦後も引き続き大漢和辞典をつくいっていくことを決意したのです。
5 新たな困難
説明 しかし、鉛の活字をまた新しくつくろうとしたのですが、その職人がほとんどいません。また問題がでてきました。しかしこの時代、新しい印刷技術が登場していました。それは写植という技術です。鉛のはんこをつくるのではなく、手書きで文字をかき、それを写真によって、印刷する方法です。この写植の技術を作り出した人物が石井茂吉さんです。大修館書店の社長鈴木一平は石井茂吉さんに大漢和辞典の活字をつくってくれるようお願いをしました。しかい石井さんはこの時60歳をこえていました。
説明 大漢和辞典のためには新しく5万字もの文字をつくらなければなりません。一文字をつくるのにも、次のよう作業が必要です。鉛筆で下書き、ペンや小筆でかき、修正をして、筆を入れる、そして仕上げ、なかには見たこともない難しい文字もあるのです。
説明 鈴木一平らの熱心な説得によって、石井さんは仕事を引き受けます。通常1年間で2000〜3000文字をつくります。石井さんはその2倍のペースで文字を作り続けました。1日に20文字から30文字。8年間休むことなく、つくりつづけたそうです。
6 大漢和辞典刊行 大切なものは何か考える
説明 こうしてついに昭和35年、大漢和辞典全13巻がつくられました。諸橋博士78歳の時でした。右目はほとんど見えず、左目も病気になっていました。
発問 大漢和辞典を作り遂げることができたのはなぜだと思いますか。漢字または熟語で書いてごらんなさい。
7 最後に
説明 昭和57年 諸橋博士は亡くなりました。享年99歳。そのお墓は下田村の長禅寺にあります。このお墓に刻まれた文字は、石井茂吉さんのつくった文字です。
説明 大漢和辞典の編成に携わった人はのべ258,347人といわれています。博士の仕事は弟子に受け継がれ、平成12年には修正版など3巻が加わり、全15巻となりました。世界最大の漢和辞典が完成したのです。博士が仕事を引き受けてから70年後のことです。
説明 諸橋轍次記念館に行くと、次の言葉が掲げられています。
「徳不孤、必有隣」
「とくはこならず、かならずりんあり」
立派な志、立派な考えを持っていれば、1人になることはない。かならずそれに共鳴して協力してくれる人がいるものである。
「徳は孤ならず、必ず隣あり」
指示 今日の授業の感想を書きなさい。